1583年4月20日、羽柴秀吉は美濃国大垣から近江国木之本まで、13里・約52kmの道のりをわずか5時間で駆け抜けた。時速にしておよそ10km、当時としては常識外れの強行軍である。NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』でも、この「美濃大返し」は賤ヶ岳の戦いの山場として描かれた。だが、この劇的な帰還が勝敗を決められたのは、秀吉が戻るまでの半日近く、最前線の砦を守り抜いた武将がいたからにほかならない。秀吉の弟、秀長である。
賤ヶ岳の戦いとは何だったのか
賤ヶ岳の戦いは天正11年(1583年)4月、近江国、現在の滋賀県長浜市で起きた、羽柴秀吉と柴田勝家の激突だ。前年に本能寺の変で織田信長が横死し、後継者をめぐる主導権争いは清須会議を経てもなお決着していなかった。勝家は織田家の筆頭家老として秀吉に対抗し、両者の軍事衝突は事実上、信長没後の天下の行方を決める戦いになった。戦の結果、敗れた勝家は本拠地の北ノ庄城でお市の方とともに自害し、これを境に秀吉の権力基盤は一気に固まっていく。
対立の火種は、信長の後継者を誰にするかを話し合った清須会議までさかのぼる。秀吉が信長の嫡孫・三法師を担いだのに対し、勝家は信長の三男・信孝を推した。この時点で織田家中は二つの派閥に割れており、賤ヶ岳の戦いはその決着を武力でつける最終局面だったといえる。
「美濃大返し」だけでは説明できない逆転劇
合戦の序盤、柴田軍の猛将・佐久間盛政が秀吉不在の隙を突いて大岩山砦・岩崎山砦を陥落させた。盛政は秀吉が大垣にいると読み、油断していたとされる。ところが秀吉は美濃大返しでわずか5時間のうちに戦場へ戻り、混乱する柴田軍を一気に押し返した。この帰還劇はドラマでも見せ場として描かれているが、秀吉が戻るまでの間、前線が完全には崩れなかった理由にはあまり触れられない。
田上山砦を死守した秀長
秀吉が木之本に本陣を置く一方、田上山には弟の秀長が布陣していた。史料をもとにした解説では、秀長がこの砦を守り抜いたことが賤ヶ岳の勝敗を分けた要因の一つとされている。派手な突撃で名を挙げた武将たちとは対照的に、秀長の役割は「持ちこたえる」という地味な仕事だった。ドラマでも仲野太賀演じる秀長は「逃げない男」として描かれており、この一連の回はまさにその論点を体現する場面といえる。
なぜ秀長の功績は「七本槍」ほど語られないのか
賤ヶ岳の戦いで一躍名を挙げたのが、のちに「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれる七人の武将だ。加藤清正をはじめとする彼らは、敵陣に突撃して武功を挙げたことで秀吉に取り立てられ、大名への道を歩み始めた。突撃という分かりやすい功績は物語になりやすく、後世まで語り継がれている。一方で秀長の「砦を守り抜いた」という功績は、劇的な瞬間として切り取りにくく、七本槍ほど華々しい逸話としては残っていない。
七本槍のその後が示すもの
もっとも、華々しい出世が必ずしも幸福な結末につながったわけではない。七本槍の筆頭格として名を馳せた福島正則は、関ヶ原の戦いでの働きもあって安芸広島49万石という大大名にまで上り詰めた。ところが江戸幕府の下で豊臣家への義理を捨てきれず、広島城の無断改築を咎められる形で改易され、最終的には信州川中島の4万5千石まで領地を減らされている。目立つ功績で駆け上がった者ほど、後の時代に大きく振り回されることもある。地味な功績で支え続けた者との対比は、賤ヶ岳の戦いが生んだもう一つのドラマだ。
独自仮説:秀長の「地味な功績」を丁寧に描く狙い
ここからは筆者の推測になる。ドラマが賤ヶ岳の一連の回でわざわざ秀長の砦守りに焦点を当てたのは、単なる史実紹介以上の意味があるのではないかと予想する。秀長は史実では1591年に病没し、以後の豊臣家は秀吉の独断を諫める存在を失ったまま、後の関ヶ原の戦いを経て滅亡に向かった、というのが後世の通説だ。清須会議の回で秀長の不在が伏線として描かれていたことを踏まえると、賤ヶ岳の回で秀長の「支える力」をあえて丁寧に見せたのは、その不在が後にどれほど大きな穴になるかを、視聴者にあらかじめ刻んでおくための布石ではないかと筆者は見ている。
突撃で武功を挙げる場面は映像として絵になりやすいが、砦を守り続けるだけの場面はドラマとして描くのが難しい。それでも制作陣があえてこの地味な功績に尺を割いたのだとすれば、そこには「後で効いてくる伏線」としての意図が込められているのではないかと筆者は考える。
地味に支える役割が、目立つ功績の陰で正当に評価されにくいという構図は、現代の組織における縁の下の力持ちの立場にも重なる部分があるように感じる。もちろんこれはあくまで一つの見立てであり、今後の展開次第で印象が変わる可能性もある。
押さえておきたいポイント
- 賤ヶ岳の戦いは1583年4月、信長没後の後継者争いの決着をつけた戦い
- 「美濃大返し」は約52kmを5時間、平均時速10kmという強行軍だった
- その間、秀長は田上山砦を守り抜き、崩壊寸前だった前線を支えた
- 突撃で武功を挙げた「七本槍」は華々しく語られるが、秀長の”守り”の功績は目立ちにくい
- 秀長は1591年に病没し、その不在が後の豊臣家衰退の一因とされる通説がある


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